沢山の方からプレゼントやバースデイカードなどなど
有難い事です こうして元気で迎えられた事に感謝をします
毎年両親が生きていた頃は親に感謝をする日だと思っていましたが
もうどちらも亡くなっているので私の年でも親御さんがいらっしゃる
人は幸せですね 感謝の言葉を伝えられるんですからねぇ
頭でわかっていてもなかなか言えませんでした💦ごめん
親不孝娘ですね 100回の墓参りよりも生きている時に一回
でも多く顔を見せていたらとおもうねぇ つくづく思う
65歳の誕生日に書いたもの
65年前 私は生まれた
亡くなった叔母がよく言っていた
「千代ちゃんが生まれた日 よう覚えとる 学校から帰ると生まれとったんよ」
天井の上から紐を垂らしそれを義姉さんがひっぱって力を出して生んだんよ と
へぇ どこかのドラマのようだ。あぶら汗を出してヒィーヒィー呻きながら紐をひっぱっ
て渾身の力を出す様子を思い出した 小学生の頃 7月の誕生日には汗を吹き出しながら
走って帰ったもんです
だってプレゼントが置いてあるから。家は貧しく今のようなプレゼントではないんですよ
私が一番よく覚えているのは、小学校の5年か6年の頃。帰ると縁側に去年まで来ていた
ワンピースが置いてあった。それを母は上手にリフォームしてくれていた。提灯袖のそれ
は大きくなり、スカートは段々畑のように違う色が配色してあった。いまなら
お・しゃ・れーってとこでしょうね(笑)それを急いで着て大きな大きなおはぎ(今店で
売っている3倍はあった)をほおばる。そのおはぎにはほとんど砂糖が入ってなかった。
つぶあんで色が今ほど黒くなくて薄いおはぎいろ。それに砂糖をふりかけて食べました
さぁ それが終わると家からどのくらいバスに乗ったか覚えていないが小童という所へ
行った覚えがある。どのようにして行ったのか、誰と行ったのかも覚えていない
母は畑か町のミシン工場で働いていたのでいなかったと思う。
だからひとりでバスに乗ったのかな?ひとりでも今の様に危険でなかった。のほほんとし
たゆっくらとした時間が流れていたのかなぁ あの頃は治安は大丈夫だったんだろうなぁ
リフォーム上手の母さんは毛糸のセーターは上下反対にしてパンツになり何でも変身させ
ていたね。私の初めての妊婦服はうまいことアップリケがくまさんの足の裏に来るように
テディベア風になっていたりして…思い出そうと思えばいくらでも出てくる出てくる。
一杯言いたい事があったであろうがもう天国に行っちゃいました 花の中で暮らしている
でしょう。生前そう言っていました。そちらの花はどんな花ですか こちらはひまわりが
一杯自分を主張していますよ
時々こんなものを書いて遊んでいます(^^)/